ふだん私たちはいろいろなモノやサービスを売ったり買ったりしています。なぜ、そんな売買が成立するのか、改めて考えてみると、非対称性という言葉が浮かびます。
私たちがお米を買うのは、それを作る能力がないからです。農家という、お米を作ることのできる人から、運ぶことのできる運送業の人を経由し、売ることのできるお店でお金と引き換えに手に入れるわけです。
ここには、ほとんどのことができないふつうの人と「〇〇できる人」という圧倒的な非対称性があるわけです。水は高いところから低いところへと流れていきます。
ビジネスはすべてこの公式に則っています。
では、情報のやりとりに関してはどうでしょう。
以前、通勤電車に乗ると、サラリーマンは紙の日経新聞を読み、学生は紙の少年ジャンプを読んでいるという光景が当たり前でした。昼間の電車では、女性がファッション誌を開いているというのも、日常の光景でした。
私は長く雑誌の編集部にいましたが、15年くらい前までは圧倒的に情報の非対称性が存在しました。
たとえば、東京の目黒通りにおしゃれな家具屋が並び始めたとき、それを知っているのは、周辺住民か、インテリアビジネスに携わる人だけでした。
ですので、そういった人たちにいい店を紹介してもらい、「雑誌に載るんですよ」というとたいていの場合快く取材を受けてくれました。「目黒通りインテリア特集」などという名前を付けて10ページくらいのボリュームで展開できたのです。
目黒通りにおしゃれな家具屋がある、という情報はほんの一握りの人しか知らない情報です。そこに非対称性が生まれ、経済的な価値に変換することができたのです。
今の状況は説明するまでもありませんが、おしゃれな家具屋を見つけた人が、どんどんSNSで発信しますし、お店も自社のサイトをもっています。だから、お金を払って雑誌を買わなくても、新しい情報、役に立つ情報はどんどん手に入ります。情報の非対称性がなくなってしまったのです。
ですから、情報を経済的価値に変換することは、非常に難しい時代となりました。
雑誌ビジネスが苦境に立ち、おそらくは歴史的役割を終えつつあるのはやむを得ないことだと思います。雑誌売上もピーク時の約半分くらいになってしまいました。
一方、通勤電車の中で、いまだに紙の文庫本を手にする人は珍しくありません。
文庫は雑誌と違ってメディアではなく、コンテンツだからです。
人々はまだまだコンテンツを必要としています。
我々もそこに本の未来を見出しているのです。