陰と陽、朝と夜、表と裏、定性的と定量的、などのように真逆の意味をなす、一対の言葉があります。次の言葉は、正確な意味での反対語ではないのですが、最近、ものごとを説明するときに便利なので、「情緒的価値」と「機能的価値」という言葉をよく使います。
いきなり使い始めてもわかりづらいと思いますので、例を挙げてみます。
洋服は寒さをしのぐとか、皮膚を守るなどの機能的価値がありますが、おしゃれをするという情緒的価値も同時に満たさなくてはなりません。
車は移動する、物を運搬するという機能的価値のほかに、所有することで持ち主のステイタスを表したり、ドライブで快適な経験するという情緒的側面があります。
三越と高島屋では、売っている商品はほとんど同じように思えますが、百貨店としてどちらが好きとか嫌いとかの情緒的要素が加わります。伊勢丹や松屋や西武、東武が加わると、ほとんど解説不能になります。
また、商品だけでなく、土地にも機能的側面と情緒的側面があります。東急東横線沿線とか港区はステイタスになりますが、私が生まれた東武東上沿線とか板橋区はまったく情緒的価値を示せていません。同じ面積、同じ利便性を持った土地でも、情緒性により、マンション購入などの場合は何百万どことか何千万円もの違いが生じます。
少し前置きが長くなってしまいましたが、では今まで出版業界が扱ってきた、雑誌や本はどうでしょう?
まず雑誌です。
私の思うところ、雑誌というのは情報取得の手段であるという点、暇つぶしの道具であるという点で、非常に機能的価値に重きをおくメディアであったのだろうと思います。週刊文春でも、週刊新潮でも、はたまた、週刊現代でも週刊ポストでも、読者は欲しい情報を手に入れられれば良かったのです。そこにはあまり情緒的価値を見出していませんでした。
女性向けのファッション誌などでも、欲しい商品の情報や着こなしの実例、おいしい料理のレシピなどがわかればそれでよく、情緒的価値に重きを置いていなかったことがわかりました。
私が女性誌の編集者だったころは、読者の嗜好やライフスタイルなどの分析に多くの時間を費やし、なんとか担当雑誌のファンになってほしいと思って雑誌を作っていましたが、読者はあまり情緒的価値を感じていなかったのです。
以前のブログでも雑誌ビジネスの終焉の理由を書きましたが、ここにも別の理由があったのです。
情緒的価値はいったんそれを認めると、なかなか離脱しないという特徴があります。好きな音楽や好きなマンガ、好きなファッション、好きな場所、好きな食べ物、好きな人というのは簡単には変化しません。情緒というのはその人のアイデンティティそのものであるからです。
一方、機能的価値というのは、それを上回る機能を持ったものが登場したり、今よりも低価格や無料である程度の機能が提供されると、かなりの割合で乗り換え、ということが起こります。
雑誌のかわりに、インターネットメディアが登場し、かなり破壊的な乗り換えが起こったのも必然といえます。雑誌の機能的価値は、インターネットによって置き換えられてしまいました。それを上回る情緒的価値を見出している人は本当にわずかとなってしまったのです。
次回は「電子書籍」と「紙書籍」について考えてみたいと思います。